気まぐれ日記 07年12月
07年11月はここ
12月1日(土)「やれやれ・・・の風さん」
とにかく迷っているヒマはない。やらねばならないことは躊躇なく実行あるのみ。
2週間前に頚椎症で首が痛くなった。今はおさまっているが、またいつぶり返すか分からない。鎮痛薬ロキソニンもそろそろ底をついてきた。土曜日の診察受付時間が終了するギリギリに、かかりつけの整形外科へ向かった。
超超超混雑していた。インフルエンザの予防接種を受けようとしている患者が多いのである。待ち時間のあいだに2年ぶりのレントゲン写真も撮ってもらった。やっと診察を受け、特に悪化していないことを確認し、希望通りに薬をもらった。やれやれ。
続いて、ワイフのトールペインティング作品展をやっている会場に向かった。久しぶりに三河湾寄りの海岸線をミッシェルで快調にひた走った。昔ひと騒動あった戸塚ヨットスクールのある海岸通りである。雲ひとつない秋晴れで、最高に気分がいい。
ワイフの作品展は1年おきにやっている。準備が大変で、連日半徹夜状態が続いていた。ポスターや案内状製作の手伝いをしたが、ワイフと生徒さんたちの日頃の精進の成果が、一気に花開く場だ。前回と同じ会場だ。個々の作品のレベルが上がっているだけでなく、趣向を凝らしたディスプレイ技術も向上している。見学した私も満足した。
帰宅して、さあこれからは執筆に専念、と思ったところで、大きな誤算発生! 我が家の暖房の主力は石油温風ヒーターなのだが、タンクの石油が空だった! 慌てて石油を買いにまたミッシェルで出かけることになった。再び帰宅したときには夕闇が降りていて、私はミッシェルのヘッドランプの明かりで、石油タンクに給油しなければならなかった。やれやれ。
12月2日(日)「関孝和三百年忌法要・・・の風さん」
待ちに待った関孝和三百年忌法要に参列する日だ。
自宅最寄の駅を7時11分に出る名鉄特急で出発した。続いて、N700系ののぞみに乗って品川で降り、山手線で新宿へ。そこから都営バスに乗って、浄輪寺に近い牛込保健センター前で降りた。
既に本堂には参列者がひしめいていた。受付で署名し「御仏前」の包みを提出した。進行役のお茶の水女子大学の真島先生、数学史学会の佐藤先生、京大の上野先生、前橋工科大学の小林先生、筑波大学付属駒場高校の牧下先生、はるばる台湾から来られた城地先生、山形大学附属図書館の米澤さん、亀書房の亀井さん、実教出版の西村さん、岩手和算研究会の安富先生もみえる。
11時に導師の入場があり、読経が始まった。関孝和の戒名が唱えられ、数学の大家であり、三百年忌であることが含まれていた。焼香もさせてもらい、チャンスをとらえてデジカメで写真も撮った。発起人の一人として、これから機会があれば一般の人々に伝えなければならない。
墓地へ回った。佐藤先生から「関孝和の墓の隣にあるのは、兄の内山永貞の墓だよ」と教えられた。今回の没後三百年の記念事業の一環で、過去帳の調査があり、初めて判明したのだという。何度か火事や戦災に遭った浄輪寺である。墓石の移転があったのかもしれないが、兄弟の墓石が並んでいるのは珍しい。納骨堂の中に保存されている、寛政6年に建立された記念碑(「関先生之墓」と刻印)も見学し、いったん浄輪寺を後にした。
再びバスで新宿へ戻り、昼食後、総武線で飯田橋へ行き、没後三百年の記念事業の会合がある東京理科大学へ向かった。東京理科大学はかつて東京物理学校と呼んだところで、夏目漱石の「坊ちゃん」の母校である。
会場の席に着いていたら、今年3月の市民講演会でお世話になった埼玉大学の福井先生が来られた。
2時からの会合も真島先生の司会で進められた。これから1年間にわたって開催される記念事業計画の説明や、小林先生による過去帳調査結果報告、名大の浪川先生や、最近『だから楽しい江戸の算額』を出版された小寺先生などのスピーチが続いた。日本の学力低下を懸念する先生方の熱い想いなども語られた。
スピーチは予定時間を過ぎても続いたが、帰りの新幹線の時間が迫ってきた私は、泣く泣く会場を後にすることになった。とにかく歴史に残る法要に参列できたことは有意義だった(少なくとも次の三百五十年忌には私はこの世にいない)。
12月3日(月)「仕事で東奔西走・・・の風さん」
本社へ直行し、二つの会議をこなした。夕方も本社で会議があるが、それまで時間が空き過ぎるので、昼食後いったん製作所へ戻った。
デスクワークをしているときに会議に呼ばれた。少し躊躇したが、すぐに終わるだろうと踏んで出席したら、目の前が真っ暗になるような内容だった。本社へ戻らなければならないのに、時間がどんどん過ぎて行く……。
何とか火の手をおさめて、夕方の会議に遅れることを電話してから出発。
会議には遅れたが、いくらか議論に参加して、ようやく一段落となった。
今週は「じっきょう」向けの原稿を仕上げねばならないので、気持ちが焦る。
……とはいえ、明朝も早いので、早々に就寝した。
12月4日(火)「恐怖の振動と衝撃音・・・の風さん」
早起きすると、まだ外は真っ暗だった。今日は東京へ出張。
最寄の駅を6時59分に出る電車で出発。名古屋まで地元の図書館が相互貸借で借りてくれた本を読む。
今朝ののぞみは一昨日ののぞみと同じで、N700系だということが分かっている。持参したアシュレイの電源をつないで、「じっきょう」向けの原稿の下書きに挑んだ。臨席の乗客の視線が気になる。
渋谷での会議が12時半に終了したので、予定通りに急いで帰宅することにした。今夜も本社で会議があるのだが、自宅からミッシェルで出張しておけば帰りが楽になるのだ。
品川駅で昼食を摂り(坦々麺が抜群に美味かった)、のぞみに乗車。N700系のように電源はないが、ディスプレイの照度を落として(バッテリの消耗を抑え)アシュレイで原稿執筆の続きをやった。
名古屋から名鉄特急に乗車して、とんでもない事故が起きた。
日本の自殺者はここ数年3万人を超えている。毎日100人近くが自殺している勘定だ。電車への飛び込みも多い。私は電車に乗るときはいつもハラハラである。それは、自分が乗った電車に自殺者が飛び込んだらいやだなあ、と思うからである。
私は1号車に乗っていた。今朝の続きで、読書をしていた。特急なので、小さな駅は止まらずに走り過ぎていく。無人のS駅を通過するため、特急はやや速度を落とした。減速感があった。
その直後、もっと強い減速感があって、客車の下からいやな振動が伝わってきた。まるで線路の上に並べられた多数の石ころを鉄の車輪が次々に踏み潰していくような感触だった。私はすぐに祈った。どうか、自殺者の飛込みではありませんようにー!
川を一つ越えるところまで電車は走って止まった。車内放送で運転士が車掌を呼んだ。車掌は二十歳そこそこと思われる女性だった。
しばらくして車内放送があった。人身事故の発生を告げる忌まわしい内容だった。私の願いは無残にも打ち砕かれた。
反対方向から走ってきた電車もすぐ横に停車した。
「運転士が現場を確認に行っています……」
さっきの下からの異様な振動は、人間を踏み潰していく儀式の伴奏だったのだ。1号車に乗っていたため、列車と同じ罪を犯した恐怖と後悔で、私の気持ちは打ちのめされ、闇の中のような器に封印された気分になった。
マニュアル通りなのかもしれないが、若い車掌は冷静に何度も何度も車内の乗客に説明を繰り返していた。
警察が現場検証に来て、走行許可が降りるまで、車掌の予告通り、たっぷり1時間もかかった。特急は再び走り出したが、次の駅に着いたところで運行停止となった。車体の下部が傷んだのだそうだ。
ダイヤが乱れるのは明白だったので、焦っている私は、発車しかけている電車に飛び乗った……。
結局、この日は、ワイフに駅まで迎えに来てもらい、その車で本社へ直行し、途中から会議に出席した。気分は超最低。ワイフは自宅へトンボ返りである。
気持ちが沈んだまま会議が終わって、避けたかった電車での帰宅となり(また同じコースを走ったのだ)、ようやく家に着いたのは10時過ぎだった。
ワイフの情報では、特急が轢いたのは電動車椅子の男性だったという。あの振動と衝撃音が車椅子を砕いたものだったと知って、ほんのわずか気が楽になった。
12月5日(水)「算額取材・・・の風さん」
今朝も暗いうちから起き出した。朝刊を開くと昨日の事故の記事が載っていた。事故が起きたのはSという無人駅構内で、防犯カメラが事故の1時間くらい前から動き回る電動車椅子の様子をとらえていたという。また、目撃者がいて、特急がやって来る10分前くらいからホームの停止線ぎりぎりのところに車椅子はたたずんでいたという。そこまで読んで自殺の匂いがした。
今日は岡山への出張だった。乗車するのぞみがN700系だということが昨夜判明したので、今日もアシュレイ持参である。相互貸借本は読了していたので(今年48冊目)、読むべき新たな文庫をカバンに詰めた。デジカメも、だ。
名古屋までは文庫を読み、のぞみではアシュレイを立ち上げて「じっきょう」向け原稿執筆。
同僚と約束した合流時間の1時間半前に岡山駅に着いた。
ここからは軍隊の行軍に等しかった。しかも早足。すぐに吉備線に乗り換えた。
吉備線はたった2両連結のワンマンカーで、途中の駅も無人駅ばかりだった。走る速度も遅く、カールルイスなら横をすいすいと追い抜いていけるだろう。
秋晴れで空は抜けるように青く、山々はゴブラン織りの絨毯のように赤や黄色で多色模様になっていた。絶好の取材日和だった。
吉備津駅に着いた。そこも無人駅。駅前には商店もなく、したがってタクシーなど見えない。いつものように足で稼ぐ取材になる。江戸時代に板倉宿だった街道をすたすた歩く。風情がある道だ。やがて街道から外れると、ほとんど田んぼばかりの田園風景が展開する。その先に村の鎮守様のような印象をもつ、目的の神社があった。惣爪八幡宮という。社殿に掲げられた算額を見学し、デジカメにおさめるためにやってきたのだ。
最も近くにあったデイサービスセンターに顔を出して、来訪の目的を告げた。これはある先生から、無人の神社に侵入することになるので、近くの氏子さんを訪ねて断りを入れておきなさい、という助言に忠実に従ったのだ。応対した若い女性はややとまどったような顔をしていたが、名刺を渡して、算額の調査をしていると話したら、どうぞどうぞと言ってくれた。
江戸時代からある村の鎮守さまなのだろう。古色蒼然といった雰囲気がある。格子の扉を開いて靴を脱ぎ、埃が積もった社殿内に入ると、鴨居の上部は周囲全部が絵馬で埋め尽くされている。入ってきた格子戸の上に算額が2面掲げられていた。目的の算額は中央で、多色刷りのきれいなものである。村人たちが集まって算題に挑んでいる様子が描かれている。男だけでなく、女性や子供の姿もある。
私は賽銭を投げ、拝殿の方に向かって二礼二拍手一礼してから、すばやく写真を撮り始めた。
私の計画では吉備津の滞在時間はわずか45分間である。帰りは走らなければならなかった。
会社の仕事もきちんと終え、帰りの新幹線に乗車したのは午後7時半過ぎだった。電源はなかったが、アシュレイを立ち上げて原稿執筆の続きをやった。名古屋からの名鉄では、文庫本をカバンから取り出した。幸いにも私の読書を邪魔する出来事は今日は起きなかった。
12月6日(木)「社外研修講師に見習いたい風さんの巻」
今日も暗いうちから起き出した。
朝刊を開くと、事故で亡くなった電動車椅子の男性は、10年前から身体が不自由になって車椅子生活となり、最近ではがんを発症したため前途を悲観していたという。やはり自殺だったようだ。色々な自殺の方法があるが、列車に飛び込む気持ちはどんなだろう。あまりの切なさつらさに胸が締め付けられる思いがする。
ミッシェルで本社へ直行した。キャリアプラン研修といって、そろそろ役職定年を迎える社員を集めて、人生設計を考えさせるのが目的である。私はたまたま早めに目的を決め、それに向かって邁進しているだけなので、不要な研修とも言えたが、同じ会社の仲間の様子を聞けたことは意義深かった。仲間たちは50歳を過ぎても、真面目に懸命に会社の仕事に取り組んでいるのである。それに比べて、マイペースが守れる私のなんとのんきで幸せなことか。すぐにも給料を半分以上返却しなければならない、と思ったが、生活レベルが落ちる恐怖でそれはできない。
研修の講師は社外から招いた先生で、定年前に企業からセミナー講師に転職した、いわば先輩だった。76歳の現在も現役で、見るからに若々しいし、言動も青年のようだ。私はこの人の年齢になったときに、これだけぴんしゃんしていられるだろうか、とても無理だろう(まるで漢文訳みたいだな)。
研修の合間に、わずかな時間を見つけては、遅れている会社の業務をした。
帰宅は午後8時だった。
明日の朝までに「じっきょう」向けの原稿(案)を出版社へ送付しておこうと決めていたので、夕食後、書斎に籠もった。
12月7日(金)「書評掲載・・・の風さん」
結局、昨夜からず〜っと執筆をやっていて、ようやく今朝の午前5時に、仮原稿を出版社へメールできた。最終締め切りは来週早々なので、これで何とか間に合う目処がついた。
今さらベッドに入るのも面倒だったので、よくあるパターンで、書斎のカーペットにごろり。
5時15分から6時15分まで、1時間だけ寝ることができた……でも、身体が痛ぇ〜。
今日も本社直行である。ミッシェルで家を出たのが6時45分だ。
午前8時からの専務報告を終え、社内の某部署へ出かけた。
あの事故があった日の毎日新聞の夕刊に、『美しき魔方陣』の書評が掲載されていることを、昨日教えてもらった。その夕刊を頂戴しに行ったのだ。
書評は文芸評論家の細谷正充さんで、「歴史・時代小説 この1年」の中で拙作に触れてくださっていた。
2日(日)の産経新聞でも、『美しき魔方陣』が紹介されていた。今回は文庫だから、書評については全く期待していなかったので、とてもうれしい。
夕方製作所に移動して席についたら、秋田の知人から郵便が届いていた。「bic-akita」(秋田県で出している冊子)に拙作(つまり『美しき魔方陣』)を紹介してくれたのである。感謝!
そろそろ東北大学生新聞にも書評が載るころだ。これからまた少し売れるだろう。
よっしゃー。元気出して頑張るぞ……でも、眠い。
12月8日(土)「ビンゴで2等賞・・・の風さん」
昨日、書評のことを書いたが、うっかりしていて地元の新聞を見逃していた。自分で調べている時間がなかったので、知人に頼んでチェックしてもらったら、あったー!
中日新聞の「中部の文芸」欄で、文芸評論家の清水信先生が、今回もしっかりコメントしてくれていた。文庫書き下ろしが出版界のかなりのウェートを占めるようになってきているので、そういったものにも評論家の目が向けられるのかもしれない。これから文庫にも力を注いでいこう。
今夜は職場の忘年会だった。電車で会場へ向かった。初めて入る飲み屋で、2階を貸切状態にしても忘年会だったので、リラックスできた。飲み放題は昨今珍しくもないが、ここはビール瓶やグラスが空になると、次のものをくれる仕組みで、飲み残しをさせない、地球にやさしい(?)店だった。ビールをコップ1杯飲んだ後は、カクテルに挑戦した。
イベントの目玉はビンゴゲームで、かつて部の忘年会で1等になったことのある風さんは、幸運よもう一度とばかりに最初から腕まくりして取り組んだ(笑)。ルールが変則で、ビンゴになった順番で上位賞品を抽選するので、一番でビンゴになった人は、不運にも8等だった。私はなかなかリーチがかからなかったが、6番目くらいの同時4人の中に入れた。そして、抽選では見事2等賞をゲットした。賞品は黒毛和牛カルビセット。正月のごちそうのネタが手に入った。
カクテル3杯で酔っ払ってしまった。
オリオン座の西に火星が赤くまたたいている空の下、ふらつく足で帰宅した。そのままダウン。
12月9日(日)「原稿一つ上がりぃ〜・・・の風さん」
北風が吹く寒い日だった。
相互貸借本を返却する日だったので、もう一度ネット上の販売状況を確認した。佳作ではないが、いちおう和算小説の中に入れてもいいかな、という本なので、できれば入手しておきたい。今日も、売られているものはなかった。止むを得ず、必要なところをスキャナーで読み込んで保存しておいた。
執筆は躊躇なしで進めなければならない。「じっきょう」向けの原稿がほぼ完成してきたので、あと少しの仕上げまでやってしまい、メール添付で出版社へ送った。これで、一段落。
今年残る仕事は、今度の週末の講演と「Net Rush」出演、そして『和算小説のたのしみ』の原稿となった。もちろん会社の仕事も大変だし、大学院での研究もあるし、年賀状作成だってあるのだが、全部と平等に向かい合っていたら、もう「うつ病」で3回は死んでいたろう。
12月10日(月)「お尻に火がついた・・・の風さん」
5週間に1度の病院通いである。いかに5週間が早く回ってくることか。
検査や診察、薬の受け取りを終えて、勤務先の製作所へ向かった。途中で、郵便局に寄り、ネットの古本屋で買った本の代金を自動機で振り込んだ。製作所に着いて、昼食後、メールチェックをした。
午後は、本社へ移動して会議の3本立て。
終わってから、有料道路を疾駆して帰宅。『美しき魔方陣』を出した出版社気付けで読者から手紙が送られていて、それが拙宅まで転送されていた。開いてみると、実に丁寧に読んでくれていて、うれしかった。次作へのエネルギーになる。しかし、ちょっと残念だったのは、この方、魔方陣に興味があって、最初書店に行ってみたら『美しき魔方陣』がなく、お取り寄せになるくらいなら近所の図書館で借りようと考えたとのこと。結局、作品を誉めてはいただいたが、売り上げにはならなかった(^_^;)。
今日は『和算小説のたのしみ』を企画してくれた出版社から「どうなっていますか?」のメールが飛び込んで、ボケ頭が爆発した! 相当に真剣に取り組まないと期待に応えられないことが、ボケ頭でもようやく分かった。お尻に火がついたのだから、当然といえば当然といえた。
こういう時のいつもの癖で、机の上の整理から着手だ。
12月11日(火)「交通安全立哨・・・の風さん」
昨夜の就寝も遅かったが、今朝は真っ暗なうちから早起きして製作所へ出社。次第に夜が明けて、澄み切った空気の中をミッシェルで走って、人気のない製作所に着いた。
今朝は製作所の近くの交差点で、役員も参加しての交通安全立哨があったのだ。少しデスクワークをしてから、7時45分に正門に集合した。睡眠不足でも寒気が心身に緊張感をみなぎらせる。とはいえ、北風が吹きすさぶ朝でなくて良かった。
交通安全の「のぼり」を抱えて交差点のはしっこに立っているだけなのだが、信号の切り替わりに合わせて、右から左へ、左から右へとクルマの流れは大きく変わる。動力性能の増したクルマは、ダンプも軽自動車も、すさまじい加速度で交差点を通り過ぎていく。揺れる地面が恐怖の波動を足元から伝えてくる。疾走しながら走ってくるクルマが、自分に向かって突っ込んで来るようで怖かった。
明日の朝、今年最大の会議があって私たちは発表するのだが、定時を過ぎて、私はさっさと退社した。週末の講演の準備がまだ終わっていない。……と言いながら午後10時過ぎ、会社のサーバーにアクセスして、自分の発表資料を修正した。
12月12日(水)「週末の講演準備が終わらない・・・の風さん」
昨夜も必死に講演の準備をし続けたので、睡眠時間がわずか1時間という状態で本社へ直行することになってしまった。駐車場に早く着いたので、少し仮眠してから本社ビルへ向かった。
今日の発表内容にはいくらか自信があったが、経営陣の反応は冷たかった。意図したことが十分に伝わらず、質問攻めにあってしまった。
それで、報告会が終わったら、そのまま午後有休をとって退社する予定だったが、できなくなってしまった。
昼食後、製作所へ戻り、夕方の会議をこなした後、上司へ明日の臨時有休を申請して、ようやく家路についた。帰ったら、講演準備の仕上げをしなければならない。
11月14日(金)「奇縁の講演会・・・の風さん」
前日まで余裕がなく(今日を含めて次に控えている原稿執筆などのために昨日は緊急有休を取ってしまったほどである)、だいぶ以前に組んだスケジュールのままで出発した。
今朝、そのスケジュールを再点検してみると、約1時間ほど早い。
そのために、最寄の駅から乗った電車が通勤・通学客でいっぱいで名古屋まで
座れなかった。つまり、ボーっと立っていただけ。
のぞみ車内では、日本数学協会が出している「関孝和没後300年記念懸賞問題」とその解説を読んだ。関孝和のベルヌーイ数発見について真剣に考察すると、これは厄介な問題となる。何か私でも取り組める切り口はないかと考えているうちに、だんだん東京が近付いて来た。
筑駒(つくこま)での講演開始は午後1時半だったが、午前11時過ぎには、もう井の頭線「駒場東大前」駅に降りた。
筑駒とは反対側にある東大のキャンパスへ入った。「駒場農学碑」のところへ行くと、碑の前の熊笹がきれいに刈り取られ、参拝できるようになっていた。道路との境には碑があることを示す背の低い常夜灯が設置してあった。1年前からの変化であるが、何かあったのだろうか。とはいえ、整備されているのは関係者の息子としてうれしい。なにしろ、この碑が完成したとき、亡父がここで学んでいたのである。
ファカルティハウス内にある洒落たレストラン「ヴェンソール」で早めのランチにした。
ゆっくりと昼食を摂った後、キャンパスを出、高架下をくぐって筑駒を目指した。
筑駒……筑波大学付属駒場中・高等学校。東京帝国大学農学部附属農業教員養成所出身の父との接点がある。1937年、旧制一高と帝国大学農学部が敷地を交換するとき、養成所は駒場に残った。碑ができたのもそのときだ。養成所は、後に東京農業教育専門学校になる(その後1949年に、東京高等師範学校、東京文理科大学、東京体育専門学校と一緒になって東京教育大学になり、さらに筑波大学へと変遷していくが)。1947年に開校したのが東京農業教育専門学校附属中学校である。こんにちの筑波大学附属駒場中・高等学校の原点である。
不思議に思われるかもしれないが、その証拠に、今でもその経緯を引いていることがある。田んぼである。駒場農学校時代にドイツから招聘されたケルネル先生(アメリカから招聘された北海道のクラーク先生の方があまりにも有名だが、駒場にもケルネル先生が来られているのだ)が残したケルネル田んぼというのがあって、今でも駒場中学校の生徒たちが面倒を見ているのである。
ということは、今日講演を聴いてもらう生徒たちは、亡父の後輩に当たることになる。昨年、日本数学協会の年次大会が東大の駒場キャンパスであり、奇しくもそこで講演をやらせてもらったが、その翌年、私はまた亡父との縁浅からぬ学校で講演する機会を得たことになる。
南無釈迦尼仏(なむしゃかにぶつ)、南無釈迦尼仏、南無釈迦尼仏……。
さて、優秀な学生が集まっていることで全国的に有名な筑駒だが、私の講演はちょっと難しいと思っていた。学校の科目でいえば「数学」と「日本史」に相当する。しかも内容は、オタクにしか分からない「和算」と「江戸時代」だ。それらを融合するキーは小説である。
しかし、今回招待してくださった牧下先生は「全然心配せずに、思いっきりやってください」と私を誘惑するので、ついその気になって、講演内容にさらに磨きをかけて「思いっきり数学」と「思いっきり江戸時代史」にこだわってみた。「思いっきり数学」とは、要するに数式や専門用語がじゃんじゃん出てくるということだ。
さすがに優秀な生徒たちだけあって、私の話を聴く表情は真剣そのものだった。……が、終わった後のアンケート用紙を見せていただくと、あまり理解できなかったというコメントも多く、やり過ぎだったと反省した。
しかし、後悔している私など関係なく、今日の聴講者の中から未来の日本を背負う人物が輩出してくるのは間違いない。
ここまでは今日のスケジュールは余裕があったが、次からが大変だった。
井の頭線、山手線、ゆりかもめを乗り継いで、SKJの新しいスタジオ(お台場にある!)でネットラッシュに出演するのである。
筑駒から1時間かかった。早速、SKJ代表の真咲なおこさんと近況を語りながら打ち合わせ。
1時間半後に収録スタートとなった。エグゼブティブ名鑑は3年連続の出演である。今回は、冒頭で多忙なサラリーマン作家がなぜ社会人入学することになったかを語った後、新作『美しき魔方陣』のテーマについて、真咲なおこさんの巧みな誘導に従って語った。
その後、ビデオ編集をスタッフにお任せして、二人で打ち上げに出かけた(実はこれが狙いだったりして……)。
忘年会シーズンのせいか、店は混んでいた。隅っこのボックス席に何とかすべりこんで、積もる話で盛り上がった。
知らないうちに11時の閉店時間になって追い出され、終電がなくならないうちに別れたが、今夜のホテルにたどり着くまで小一時間もかかった。
12月15日(土)「戦闘開始・・・の風さん」
岩波書店向けの原稿を頑張らなければならないので、当初は、午前中にギャラリーオキュルスに寄って高山ケンタさんの作品展を見学し、それから須賀川の母を訪ねる予定だったが、止むを得ず涙を飲んで中止した。
ホテルで朝食後、あらかじめ調べておいたN700系のぞみで帰名した(車中でアシュレイに電源をつないで原稿執筆するためである)。
名古屋からも名鉄特急に乗って帰宅を急いだ。
ワイフが留守なので、駅から急な坂道を歩いて上り、家に着いてすぐインスタントラーメンを煮て食べた。
こうしていよいよ戦闘開始。今から月曜日の朝まで、昼となく夜となく書斎で執筆専念である。
12月16日(日)「寝ては覚め、起きてはまた横になる風さんの巻」
3度の食事はだいたいきちんととるが、睡眠はその都度、である。つまり、眠くなったら書斎でそのまま……。目が覚めたら、また執筆。入浴も眠気覚まし程度に利用するだけ。
岩波書店向けの原稿の章立ては、企画段階で出版社とやりとりし、最終的に出版社の企画会議で決定したものをベースにしている。ほぼすべての原稿で埋め尽くされたら、全体構成は再検討することになるだろう。図や写真の挿入についても第1稿完成後に相談して決めるつもりだ。
今回の作品は小説ではない。和算小説の紹介本のような体裁である。狙いは、和算小説を通じて、和算の面白さ、江戸時代の数学文化程度の高さを示す。特に、関孝和没後300年という記念すべき年に当たるので、関孝和については和算小説という切り口だけでなく、紙幅を使って筆者の想いを込めて解説することになる。
以上のように、ある程度調べて書くことになるので、執筆にはそれなりに時間がかかる。
忘れてならないのは、メッセージをきちんと織り込むことだ。
さすがに疲れているので、夕食後、少し仮眠することにした。
もうこんなことを何度繰り返したろう。
午前1時に起き出して、執筆再開。
12月17日(月)「出版社からムチが入った・・・の風さん」
いくら何でも今日から出社しなければならない。
原稿はまだまだ未完成状態だが、出版社としても「覚悟を決めるかどうかの判断」をしなければならないだろう。
午前7時過ぎに、「第0稿ですが……」と、おっかなびっくりメール送信した。「吉」と出るか「凶」と出るか。
出社し、仕事の合間にケータイで、プロバイダーのサーバーに届いたメールをチェックした。午後になって、返信があった。その文面を読むと、心中する覚悟を決めたような悲壮感を感じたので、男として応えなければならない、と強く思った。
昼休みに自分の席でうたた寝をしていたら、爆睡状態に沈み込んだ。
「もしもし、大丈夫ですか?」
職場の女性事務員に肩を叩かれて、ようやく目覚めた(この無防備な寝姿は、同じ製作所に勤務する某女性にも目撃されたことが後で判明して、冷や汗を流した)。
定時で帰宅し、さあ執筆と意気込んだが、今日はワイフのカード(礼状)作成と写真印刷を手伝う約束だった。
夕食後に取り組んだが、サンルームの共用パソコンのプリンターが不調で、結局、書斎の執筆マシンを使うことに……。
それが終わったころ、猛烈に眠くなり、また仮眠。
午前1時に無理やり起き出したが、気力が目覚めない。
参考資料を読んでいるうちに時間がどんどん過ぎ、結局、疲れてまた仮眠。久しぶりに寝室へ向かったが、そこは、まるで屋外のように冷えていた。
12月18日(火)「ああ、これが現実。やせ我慢の風さんの巻」
普通の時刻にベッドで目が覚めた(笑)。
寒い。眠い。体が痛い。だめだ。起きられない。……。
確か今日は午前中は予定が入っていなかった気がしたので、職場へ電話して、出社は昼からと伝えた。
しかし、この判断は間違っていた。
時間をかけて原稿を少しだけ書き足し、自宅で昼食後、製作所へ向かった。
昼からの会議の用意をしていたら、電話があり、受け取った女性事務員の話で、今日の昼は、製作所内の部門長が集まっての食事会のある日だったことを思い出した。そういえば、昨日、事務局から出席を促すメールがあり、「OK」と軽い返信を出したばかりだった。
着実にボケが進んでいる風さんである。
午後7時過ぎまで仕事をして帰宅。
名古屋で一人暮らしをしている長女が、夕食後にようやく帰ってきた。月に一度の帰省である。
一緒にワインを飲みながらケーキを食べた。
疲労した肉体にアルコールは容赦なく倦怠感と睡魔の刃で襲いかかってくる。
けっこう酔ってしまったので、先に風呂に入って寝ようとしたら、長女が年賀状を印刷したいと猫なで声を出した。
こうして午前零時過ぎから、年賀状作成ソフトを使った年賀状作成作業が始まった。
たった15枚だったが、終了したのは午前1時半ころである。
「忙しいのに、お父さん、ありがとう」
「どうってことないよ」
ひたすらやせ我慢の風さんだった。
12月19日(水)「感謝感激・・・の風さん」
本社へ直行して部の会議に出席した。そのとき、昔の部下から「『美しき魔方陣』とても面白かったです。『円周率を計算した男』にもサインしてください。それと……『算聖伝』が欲しいのですが……」と言われて、ビックリした。
元部下のこのセリフからピンと来るものがあったからだ。
実は、ある人から『美しき魔方陣』についてコメントしているブログを
発見しました、と教えられていた。そのブログを読んでみると、何と同じ職場の後輩である! 内容はうれしいことが書いてある。感謝感激である。ところが、誰なのか特定できなかった。
ピンと来るには来たのだが、もしかすると間違っているかもしれない。たまーにシャイな性格を見せる風さんなので、それが出た。
とりあえず丁重に応対した後で、メールを送ると、ブログにも書きました、と向こうから打ち明けてきた。アドレスは間違いなく、読んだブログだった。むむ。ますます作家とサラリーマンの境目があいまいになっていくな。
12月20日(木)「今日も境目はあいまい・・・の風さん」
2週間前に社内教育で一緒になった方が、わざわざ席まで会いに来てくれた。書店で『美しき魔方陣』を購入したという。感謝。本当に会社員だとプロフィールに書いてあったので感激しましたという。こちらこそ感激。和算小説は初めてらしいので、気に入ってもらえると良いのだが……。
それにしても、今日は朝から腰が痛い。腰が痛くなるなんてほとんど経験がない。やはり無理しているのだろうか。
ということで、今日の日記はこれでおしまい(もう日記を書いている場合ではない)。
12月21日(金)「巧妙なオレオレ詐欺電話・・・の風さん」
今日も腰の痛みが引かない。それでも、やらねばならないことは、やらねばならない。
わたしが勤務している会社には短大もある。そこの講師も2年間担当したことがある。今朝は先ず、その短大へ直行した。うちの職場で卒業研究の実習をしている短大生がいて、今日がその中間発表会だった。職場の責任者として聴講する必要があった。うちの実習生も含めて、なかなかしっかりした発表をしていてとても感心した。若者が成長していく姿を見るのは気持ちよいものだ。
昼前までに職場へ戻ろうと急ぎつつ、缶コーヒーを買うためコンビニに寄った。何を買ってもいいのだが、おまけがついているとそれに手が伸びるのが人情……ではなくって私の習性(^_^)、チョロQがついているブラックコーヒーを買ってしまった。キャップを外したら、中から出てきたのは、レッカー車だった。
午後、職場へ変な電話がかかってきた。外線で、私が受話器を取り上げると、部下のきむらたくや(仮名)への電話だった。若い女性の声だった。
「きむらですけど、きむらたくやをお願いします」
苗字を名乗って、フルネームで指名してきたので、奥さんからの電話だと思った。部下は妻帯していて小さな子供もいる。
ところが、違う部屋の電話へかかったので、しばらく待ってもらって、部下へつなごうとした。ところが、本来の席に部下はいなかった。
「今、席にいないのですが、戻ったら電話させましょうか?」
「いいえ、またこちらからかけなおします」
それで、電話はいったん切れた。
何となく胸騒ぎがした私は、電話で部下を探し出し、奥さんから電話があったことをやっとのことで伝えることができた。
ところが、しばらくして……。
「うちの女房からの電話じゃありませんでしたよ」
折り返し電話したらしいきむらたくやは私へ報告に来た。
「だって、きむらですけど、きむらたくやをお願いしますって言ってたぞ。お母さんじゃない。お母さんなら、きむらたくやじゃなくてたくやをお願いしますって言うはずだ」
私はムキになって主張した。部下は、妹か姪かそんなところへも念のため、電話してみたが、
「もう心当たりは全くありません」
ということだった。
これで、すべてが明確になった! 巧妙な「オレオレ詐欺」の応用電話だったのだ。
バカな上司である私が電話に出る。部下の奥さんからの電話だと早とちりする。そして、部下に次のように取り次ぐのだ。
「きむら君。奥さんからの電話だよ」
部下が電話をとる。
「もしもし、僕だけど」
とか何とか言ったら、相手の思う壺。
女性はひどく取り乱した感じで喋るのだ。部下は、上司が奥さんだと言うので、最初は信用している。しかし、声の様子は普通ではない。他人のような気もする。
そこで、すぐ電話は違う奴にバトンタッチだ。
たとえば相手はこう話してくるだろう。
「奥さんが交通事故を起こしてパニクっています。相手は暴力団風の男みたいで、このままだと何されるか分かりません。俺が何とか示談にしてあげますから、お金を振り込んでくれますか?」
バカな部下だったら騙されるだろう。うちのきむらたくやは騙されることはない。しかし、その上司である私はコロッと騙された。
面白い話題が出来たと思って、るんるんらんらん帰宅した。
……しかし、その前に、缶コーヒーについていたおまけのチョロQを自慢しなければ……。
私は食堂のテーブルの上に、チョロQを置きながら、
「これ、缶コーヒーのおまけで手に入れた……」
と言い終わらないうちにワイフがごそごそ。
「わたしも、これ買っちゃった」
「おおっ!」
ワイフが差し出すダブル缶コーヒーには、ミニチュアカーがおまけについていた!
「明日、シルバーさんに庭木の剪定をしてもらうので、コーヒータイムに出そうと思って……」
似た者夫婦とはこのことか。
続けて、会社へかかってきた巧妙な「オレオレ詐欺」電話の話をした。
すると、ワイフが目を三角にして突っ込んできた。
「あなた、女性からの電話だって取り次がれたら、心当たりが多過ぎて困るでしょ?」
こういう議論には応じない方が身のためだということを私は知っている。
12月22日(土)「楠木さんの本が3冊そろい踏み・・・の風さん」
どうにも腰が痛くて、限界かもしれないと思い、昨夜から今朝にかけて実に11時間の睡眠をとったが、痛みは消えない。それでも今日は、本来大学へ出かけて先生と相談する予定だったのを延期させてもらっているくらいである。何としても執筆を進めなければならなかった。
17日(月)に第0稿の出来そこないを送ってから、ずっと準備していたのは、関孝和に関するネタである。『和算小説のたのしみ』の中でも、関孝和に関する部分は重要だが、そもそも関孝和関連の小説がきわめて少ない。それは、伝記が書けないほど関孝和の人生には謎が多いからだ。それから、関孝和のことを調査・研究しているのは、小説家だけではない。なぜかと言うと、算聖誕生というか関孝和の数学確立のプロセスを解明していくことは、数学研究や数学教育への重要なヒントを内包している可能性があるからだ。中国や朝鮮そして西洋の宣教師からもたらされたわずかな数学知識を元に、あれだけの業績をなしえたその秘密に迫ることは、数学発展に底知れない啓示を与えてくれるかもしれない。私も小説家として、もっともっと関孝和の人間の本質に迫りたいと思っている。
ま、とにかく、そんなわけで、1週間を執筆の準備に費やしたので、この週末に一気に吐き出すつもりだ。
今日もまた楠木誠一郎さんから新刊が届いた。わずか10日ほどの間に3冊も届いたことになる。楠木誠一郎著『消えた探偵犬の秘密』(ジャイブ)、『聖徳太子は名探偵!!』(講談社青い鳥文庫)そして今日の『もぐら弦斎手控帳 逃がし屋』(二見書房)である。結局、トップページの寄贈された書籍のところに3冊がそろい踏みとなった。すっげぇ。僕も頑張らねば……しかし、腰が痛い。
12月23日(日)「腰痛との闘い・・・の風さん」
今日も腰が痛い。座っていると痛い。頚椎症の痛み止めとしてロキソニンをもらっているが、それを飲んでも痛みはおさまらない。背骨の下の方というより、両方の臀部の上部奥が痛い。かつて腎臓結石で1年間苦しんだことがあるが、内蔵から来る痛みではなさそうだ。
これまでの執筆は、書斎で疲労と戦いながらだったので、疲れるとそのままダウンし、目覚めるとまた机にへばりついて執筆だった。それが、疲労がそれほど重くなくても、腰痛のために机にへばりつけなくなっている。何とも情けない。あらゆることを後回し先延ばしにしながら頑張っているが、ペースが上がらない。
12月24日(月)「会社の仕事もできない風さんの巻」
世間は振り替え休日だが、完全週休二日制の企業に勤める私には関係なかった……のだが、今回はそれで助かった面がある。出版社が休みなので、私が送る第0稿の約束も明朝まででいいのだ。ラッキー(^_^)。
とはいえ、今日は出社だ。会社に出ていて執筆ができるわけではない。
しかし、執筆もできないが、会社の仕事もちょっとーダメだ。そうである。腰痛は執筆の障害だけでなく、会社の仕事にも支障が出る。立っていれば何とか我慢できるのだが、この腰痛は椅子に座っていると痛みが増すのだ。どうも椎間板ヘルニアっぽい。
どうにもガマンできなくなり、午後から半休にすることにした。
帰宅しても執筆どころではない。先ず、腰の痛みをやわらげるため、書斎の床にごろりと寝た。固いカーペットの上で背骨がまっすぐになるせいか、いくらか楽である。そのままウトウト……。
夕方からやっと起き出して、執筆マシンへ向かった。
とりあえず食欲だけは減退していないので、会社でも自宅でもしっかり食べてはいる。太ることが心配だが、体力だけでも確保しておかないと。
12月25日(火)「前かがみになると腰が痛い・・・の風さん」
未明に第0稿……と言いながらまだ未完成……を送信した。
やや遅く出社し、いきなり会議だ。
夕方から本社で専務報告だったが、「パスできないか」と部下に弱音を吐いた。
しかし、「どうしても来て下さい」と頼まれ出かけることに。
実は、椅子に座っているときだけでなく、ミッシェルの運転席に座っていても痛いのだ。腰を九の字に曲げると痛いのだ。だから、情けない話だが、ズボンを穿くのが苦しい。靴下をまともに履けない。前かがみになりたくない。
専務報告は部下にやってもらい、私は横に座って腰の痛みに耐えていた。
出版社とのやりとりで、27日午後か28日にもう1回出来たところまでの原稿を送る約束をした。しかし、多くは望めないぞ、腰が……。
明日の朝もしまだ腰が痛かったら、かかりつけの整形外科へ行こうと思いつつ就寝した。
12月26日(水)「とうとう整形外科へ・・・の風さん」
腰痛が始まって1週間である。その1週間目の朝も腰痛で目が覚めた。
いちおう出勤できる服装にして、真っ直ぐ整形外科へ向かった。レントゲンでもMRIでも何でも受けるつもりだった。とにかく早く原因を知って苦痛から逃れたい。
8時半過ぎに病院に着いた。これなら昼までに会社へ出られるかも。
レントゲン検査をしたが、特に決定的な異常は見つからなかった。最近徹夜が多いという話をしたら、疲労かもしれないと言われた。そりゃそうだろう。ここ1週間で蒲団で寝たのは1日くらいしかない。プロの作家根性丸出しで頑張っているからな。
痛みがこもっている両側の臀部の上のあたりに痛み止め注射を打ってもらい、さらに鎮痛剤を処方してもらった。これでまだ痛みが続くようだったら、次はMRI検査をすると約束した。
病院から製作所まで普通で走ると小一時間は優にかかる。時間が迫っていたので、有料道路を突っ走った。実にきれいに空が晴れ渡っているが、腰が痛いので気分は最低。痛み止め注射はすぐには効いてこない。
製作所では診療所へ直行して、4週間に1度の血圧検査だ。正常範囲ではあったが、いつもよりやや高め。腰痛の話をドクターにしたら、「痛みに耐えている分だけ、血圧も上がっているのでしょう」とのこと。
午後から本社へ出かけ重要会議……。
定時後は所属する部署の忘年会だった。
この頃までにかなり痛みが引いてきたので、だいぶ気持ちが前向きになっていたが、忘年会で立ちっぱなしでいる間に、なぜか腰に負担があったらしく、また痛くなってきた。
忘年会でも飲まずに帰宅。
書斎へ直行し、これまであまり手がつけられなかった章に挑戦した。年末・年始休暇前にこれだけは書き上げておきたい。
12月27日(木)「連休前最後の原稿とデータを送付・・・の風さん」
今朝未明(午前2時半ころ)に、相変わらず未完成だが、とりあえず自分で決めたところまで書いた第0稿を送付した。
せっせと痛み止めを飲んでいるせいか、かなり腰が楽になってきた。
今日は会社は最終日だが、明日、愛工大八草キャンパスへ行って、大野先生と今後の研究について相談しなければならないので、それが気になってしようがない。
会社ではたまった仕事を片付けるだけで精一杯だった。特に、年末年始を迎えるのだから、年明けにスムーズに仕事に入れるように準備することがある。デスクダイアリーの空欄が、スケジュールで次々に埋まっていく。
あっという間に夕方になり、気が付いたら、同僚はほとんど帰宅してしまった。うかうかしていると最後になりかねない。急いで大学の研究のための参考文献を紙袋に詰めて退社した。
外はけっこう冷え込んできていた。
今夜も書斎に籠る。
今度の原稿には必須の和算小説の本の表紙の画像データを、すべてpdf化して出版社へ午前零時前に送信した。
さすがに疲労が蓄積していて、大学の研究に着手することができない。
12月28日(金)「とりあえず連休に突入・・・の風さん」
朝から雨降りである。何となく憂鬱な1日の始まりだった。
出かける前に、大野先生との打ち合わせ資料を用意した。
早めに昼食を摂ってミッシェルで出発。
いつもは名古屋の本山キャンパスで先生と打ち合わせるのだが、今日は先生のご都合で、豊田の八草キャンパスである。ここへ行くにもだいたい小1時間かかる。
正門で学生だと言って注射許可をもらおうとしたら、守衛の人がとても親切で、「休みだから中へ入っていいよ」と言ってくれた。実は大野教授室まで駐車場からかなり歩くのである。今日のような雨降りで腰痛の風さんには気分が重かったが、これで一気に元気になった(笑)。
先生とは小樽での学会発表以来の打ち合わせだった。その間、私は作家としての講演が続いていて、とても研究どころではなかったのである。ま、過ぎたことは仕方ないので、来年から頑張ろうという相談をしただけである。
依然として雨が降る中、床屋とガソリンスタンドに寄って午後7時過ぎに帰宅した。
それにしてもすさまじい忙しさが続いていたものだ。これで、明日から落ち着いて色々な仕事が……おっと、待った、年賀状があった!
夕食後、年賀状の準備に着手した。先ず、誰に出すべきかのリスト作りからである。
12月29日(土)「やっと年賀状を投函・・・の風さん」
昨日とうってかわって上天気である。気温も高く、日中書斎の窓を開けていても寒くない。こういうときは大掃除をするに限るのだが、だめだめ、その前にやることがたんとある。
どうしてこんなに時間がかかったのかよく分からないが、年賀状を出す人のリストを長時間かけてようやく完成させてから、まず宛名を印刷した。差出人は、鳴海風と本名の2通りである。合計で190通くらいだ。
続いて、葉書の裏のデザイン。今年は基本を1種類にして、挿入する文章を3通り作成した。コメントを書かなくてもいいように、文章は長い。
この作業は夕食後も続いて、ようやく午後10時過ぎに年賀状が完成した。明日という日が当てにならないので、すぐに投函に出かけた。町で一番大きな郵便局まで、である。
これですっかり安心して、途中のスーパーでワインを買って帰った。
深夜、ワイフとワインを飲みながら、明日は作家業ができるかな、と揺れる頭で考えていた。
12月30日(日)「うれしい書評・・・の風さん」
痛み止めが効いているのか、それとも次第に疲労がとれているのか、腰痛が気にならなくなってきた。年賀状作成が終わって、書斎を眺めてみると、やりかけの仕事や雑務が山のように散らかっている。じっくりと優先順位をつけている余裕はなく、気が付いたところから崩しにかかる。
年も押し詰まって『美しき魔方陣』の書評が届いた。「東北大学生新聞」である。いちおうOBなので、東北大学附属図書館とこの東北大学生新聞会へは毎回本を寄贈している。長く保存あるいはPRしてもらえるかどうかは、今後の活躍次第だろう。
今回の書評は素晴らしかった。作者の意図を的確にとらえて解説してあり、その読解力と未熟な私へ好意に頭が下がった。このホームページで内容を紹介したかったので、メールで問い合わせたところ、すぐにOKの返信が来た。書き手はまだ在学中ではないかと想像しているが、多忙な日々を送っていることだろう。書評掲載紙には、小田和正氏の記事が隣に、裏には星亮一先生のインタビュー記事が載っていた。7年間も在学した私としては、母校の恥にならないように精進しなければならない。
母校といえば、秋田高校。昨年のこの時期は、全国高校ラグビー選手権で花園に出場していて、勝敗が気になっていた。今年は残念ながら県大会で決勝へも進めなかったようだ。代表校は秋田中央。強豪秋田工業が低迷している間に、昨年は母校、今年は秋田中央が出場権を得た格好だ。
今日、高校のラグビー部のマネージャーをやっている次女は、部員と一緒に花園大会を見学に行っている。だんだん寒くなってきている中、ご苦労なことだ。
講演を原稿化しようとすると、どうしても写真や画像データを挿入する必要が生じる。著作権の問題があるので、いつものように使用許可願いを準備した。「じっきょう数学資料」の巻頭言の初稿ゲラが届いたので、その校正もした。……。
そうこうしているうちに、一日が更けてきて、書棚に置いてある気圧計をチェックすると999hPaを指している。明日から元旦にかけて、かなり冷え込みそうだ。
12月31日(月)「2007年を総括・・・の風さん」
とうとう大晦日だ。最後に、今年の鳴海風を総括しよう。
インターネットを利用していると、たまに変なページに踏み込んでしまう。「簡単TOEIC診断」ではまずまずの成績を上げられて良かったが、今回のは「脳年齢診断」だった。画面に現れてくる数字の羅列の中から、1から順に20まで選んでクリックするというもの。これでどうして脳年齢が測定できるのか分からない。とにかくやってみた。1回目は40代後半と出た。くそ。どうやら先を読みながらやる必要がある。つまり1を探して見つけた時には、クリックしようとしながら次の2の位置を探すのである。さらに10を過ぎると、毎回数字が再配置される。次の数字は同じところには現れないので、視野を目一杯広げて探索準備に入る必要がある。再挑戦してみたら、スイスイできた。結果は10代後半。満足。
ホームページを開設したのは、1999年9月20日である。8年と3ヶ月になる。鈴木輝一郎さんの助言に従って、バトルや荒らしの対象になる掲示板は最初から設けていない。従って、アクセスカウンターの増加速度はゆっくりしたものである。それでも、著述や講演回数が増えるに従って、昨年から今年にかけてややペースが上がってきた。もしかすると年末までに10万の大台に乗るのではないかと、密かに期待できるところまできた。しかし、超多忙状況のために気まぐれ日記の更新が停滞するようになると、カウントアップのペースはやはりにぶるのである。目標を10万から9万9千に落としてみたものの、それも達成は困難となった。何とか1月末までに10万を超えたいと思っている。
以下、今年の成果を列記する。
【小説】
長編『美しき魔方陣』(小学館)出版。
『算聖伝』増刷(第2刷)。
新鷹会アンソロジー『武士道日暦』(光文社文庫)に短編「八寸の圭表」収録。
【エッセイ・読み物など】
「還暦目前に円周率の公式を求めた和算家」(アグレプランニング『健康』2007春)
「帰ってきたウルトラの父」(「大衆文芸」07年7月号)
「数セミ・ブックガイドABC『綴術算経』」(日本評論社『数学セミナー』2007年8月号)
「小説になる江戸時代の数学者」(日本数学会『数学通信』第12巻 第2号 2007年8月)
【講演・トークなど】
咸臨丸子孫の会第9回総会でミニ講演(2月12日)
NHK文化センター名古屋「私の愛する数学者」(2月24日)
日本数学会「市民講演会」(3月31日)
ジュンク堂池袋本店トークセッション「円周率と忠臣蔵」(4月7日)
第3回全国和算研究(松山)大会でショートスピーチ(8月18日)
QCサークル東海支部主催「経営者フォーラム」(10月30日)
ジュンク堂池袋本店トークセッション「美しき魔方陣」(11月22日)
幕末史研究会の例会で講演「幕末天文方の歴史」(11月23日)
刈谷市中央図書館主催「文化講演会」(11月25日)
筑波大学附属駒場中・高等学校でSSH数学特別講座(12月14日)
「Net Rush」エグゼブティブ名鑑(12月14日)
注)他に会社員として、学会発表が1回、講演が3回。
【その他の特記事項】
関孝和没後三百年記念事業の発起人の一人として活動(2007年3月〜)
愛知工業大学大学院経営情報科学研究科のパンフレットに在学生として登場(2007年5月〜)
*)自主的に入学試験を受け、社会人入学(博士後期課程)を果たした。
愛知淑徳大学 現代社会研究科研究報告 第2号(2007年6月30日発行 抜刷)中日新聞
日本数学会のパンフレットに掲載(2007年9月〜)
注)書評やインタビューに基づかない鳴海風に関する記事は省略。
昨年と比較したい方はこちら。
2008年は、これを上回る成果が出せるように努力しますので、皆さん、応援してくださいm(_ _)m。
08年1月はここ
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